動機の説明

 何となく自分のブクマを見ていたら、私のブクマを取り上げて、こんなこと(http://d.hatena.ne.jp/mo_hate/20080413)を書いておられる方がいた。
 以下引用したい。

内容を見ると、昨日の風はどんなのだっけ?さんのアンチの様子。
しかしその徹底ぶりが半端ありません。
Bodyさんはダイアリをやっていないようですが、このブックマークは2年前からやっているようです。

一年以上前に増田で既に言及されていますが、このブックマークはまだ続いています。
(略)

何が彼をそこまでさせるのでしょうか?

 確かに、動機を不思議がられてもおかしくはないだろう。
 なので、動機を説明しておきたい。

きっかけ

 toroneiさんのことを知るきっかけは、toroneiさんのhttp://d.hatena.ne.jp/toronei/20060228/Jというエントリがきっかけ。
 このエントリは、自分が参加していないお笑いのイベントに対して、他人の感想ブログを誤解して、誤解に誤解を重ねた憶測でイベント主催者を罵倒するというもの。その上、誤解が指摘されたら逃げを打つというtoroneiさんの態度(http://three-out-change.air-nifty.com/trash/2006/03/31_7195.htmlなど)に、正直に言って憤りを覚えたのが発端であったように記憶している。

「toroneiさん」って?

 そこで、「こんなとんでもないことを言う人がいるんだ」と驚いたものの、ほぼ同時に、2ちゃんのネットウォッチ板に専用スレッドがあることを知る(現行スレッドは、当ブログのヘッダー部分からリンクしている)。
 過去ログ等を見るにつけ、toroneiさんのとんでもなさをさらに知る。

そこでブクマを

 そこで、私自身もヲチャーとなり、ヲチのためにブクマを付け始めたというのが流れである。toroneiさんをヲチするため専用のアカウントなので、toroneiさんだけを追っている形になったわけであった。また、さかのぼってブクマしたものもあるので、toroneiさんのことを知ったきっかけのエントリよりも、前のものに付けたブクマもある。
 なお、タグに引っかかる人もいるだろうが、タグは完全に分類用である(タグの意図についても、いずれ説明する機会を設けたいと思う)。

まとめ

 したがって、「関わり合いにならないほうがよさそう」という増田の記事は、妥当だと思う。toroneiさんをヲチするためだけのもので、原則としてtoroneiさん以外の人とやりとりする意図はないものなので。
 また、「Bodyさんはダイアリをやっていないようですが」というのも、ダイアリーを利用し始めたのが最近のことなので、仕方ないことだとも思う。なお、ダイアリーを利用し始めたのは、toroneiさんからのリアクションがいただけるようになったから。応答への応答を行うためにはダイアリーを用いる必要があったためである。

以上

 今のところ、今回は以上である。
 私はコメント欄も開放しているし、トラバが来ても削除したりしないので、toroneiさんからのご返答をお待ちしたい。
 また、以前問うたことへのご返答もまだいただけていない状況なので(ブクマで反応するのならば、こっちを先にやってほしいという思いがあるが)、そちらもお待ちしている。

2点目

 続けて、今回返答いただいた2つ目のブクマについてである。

問題のエントリを引用

 ここでも、まず焦点となっているエントリを引用する。引用はhttp://d.hatena.ne.jp/toronei/20080413/Bより。

 いやあマジで怖いよ、そういうビラ配る人が団地やマンションに入ってくるって、右翼の街宣車と同じぐらい、宗教と左翼のビラ配りの人たちが、マンションや団地の共有スペースに入ってくるのは、市民社会にとって驚異であるということを、浮き世に着地していない人たちには分からないようです。まして庶民感情として、ピザ屋と政治・宗教・思想団体のチラシを捲きに来る人の違いは歴然とある事は、市井の人たちの素直な気持ちですよ、思想の内容は関係ない。左だろうが右だろうが、そういう人が入ってくるのは、良い悪いではなく単純に怖いという気持ちはある。

(略)

一般の人の常識が通用する相手なんだから、商業人の方が来ても怖くないよね、思想屋は時として一般の人の常識が通用しないんだから、居住スペースに入ってきてほしくない連中と思われるのは仕方ないでしょう。右翼の街宣車と同じぐらい、思想団体や宗教のチラシ配りの人が入ってくるのは怖いし迷惑です。

ご自身の体験(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080411/U)をふまえて、ビラ配りが住居にビラを配ることを規制するのは、当然であるとみなす。そうした判断は、「庶民感情」「市井の人たちの素直な気持ち」において妥当であるとするもの。

ブクマで私が指摘したこと――toroneiさんの感情が、なぜ「庶民感情」「市井の人たちの素直な気持ち」と同一化されるのですか

 こうしたエントリに私が付けたブクマコメントは以下の通りである。

判決の妥当性についてはおいておくとしても、このエントリは、何の根拠もなく、「自分の主張=庶民感情」としているだけ。「庶民感情」って一体何ですか。しかし、「感情」で司法判断を論じるのも、すごい態度だ。

 「判決がいいか悪いか」という判断そのものについては議論する気はない。いろいろな観点や根拠によって、論じられるだろうし、それぞれに正当性がありうるから。
 私が、toroneiさんの文章に違和感を持ったのは、「toroneiさん」という特定の個人の感情が、いつの間にか「庶民感情」と言い換えられ、さらにそれが「市井の人たちの素直な気持ち」とすり替わっているからである。
 toroneiさんが、ご自身の体験に基づいて、「私はこういう体験をしたので、この判決は理解できる」とするに留めるのならば異論はない。しかしtoroneiさんのこのエントリは、それ以上のことを言っている。toroneiさんのこのエントリでは、あくまでもご自身の感情に基づいただけのものである「判決は理解できる」という判断が、「市井の人たちの素直な気持ち」と類似するものと位置づけられ、それによってこうした判決を妥当視する人が一般に多いかのように論じられているわけである。
 しかも、それだけではなく、判決に異論を唱える人に対し「浮き世に着地していない人たちには分からないようです」と批判しておられる。ここでも、「『浮き世』=世の中で一般的になっている(あるいはそうなるべきである)のはtoroneiさんの判断である」という論が(元々はご自身の体験談でしかなかったのに)すり替わっているのである。

誤解しないでいただきたいのだが――自分の意見を一般化させる方法はあるし、きちんとすれば問題はない

 「浮き世」で一般的な意見が何なのか、「庶民感情」や「市井の人たちの素直な気持ち」が何なのか、根拠を(たとえば意識調査などがあるのなら)示した上で、論ずるのなら、別に問題はなかろう。ただ、toroneiさんの場合は、そうした手続きを何も踏んでいないわけである。

toroneiさんの反応は

こうした思いを背景に持ち、上述したようなブクマコメントをつけたわけである。そうしたところ、toroneiさんからブクマで反応があった。以下に引用する。

感情だけで物を言ってはいけないの? あと自分の感情=庶民感情、何が間違い? 「庶民を代表して」と言っているのならともかく(笑) 多くの反応はその通り、でもあえて言わなきゃと思った、こういう声はあるとね。

これは、私に向けられているであろう部分とそうでない部分とがあるが、私のブクマコメントに該当するもの(ゆえに私にも向けられていると思われるもの)については項目に分けて反論を行う。

間違いも何も、根拠が全くないじゃないですか

まず、
>自分の感情=庶民感情、何が間違い?
について。
 この反応には、2つの点でおかしさがある。
 1点目は、「『庶民』とは何か」ということである。toroneiさんは一体何をもって「庶民」と位置づけているのか。それがあいまいであれば、「『(実体の不明な)庶民』の感情」を云々したところで、何の意味もなさない。
 次は、「本当にtoroneiさんの意見が『庶民感情』なのか」ということである。toroneiさんが何を「庶民」としているのか分からないが、なぜ自分の感情を「庶民感情」と同一視できるのだろうか。この点が全く分からない。こうした2点が明らかでないため、
>自分の感情=庶民感情、何が間違い?
という反応には「間違いも何も、自分の主張と『庶民感情』が一致することに関して何の根拠も示してないじゃないですか(間違いかどうかを判定する以前の問題です)」とお返事しておきたい。

要するに、ブクマコメントで私が既に指摘していることなのだが、どうもtoroneiさんの目には入ってなかったようである。

「庶民」って言葉は、背後に集団が存在することを前提としている言葉ですよ

続いて、
>「庶民を代表して」と言っているのならともかく(笑)
について。
 この反応からは、toroneiさんが、そもそも「庶民」という言葉をきちんと理解していないことがうかがえる。
「庶民」などの言葉は(たとえば「国民」や「市民」などもそうだが)、たとえ単一の人間を示す意味で使っていたとしても、その背後に何らかの集団が存在することを前提とする言葉である。つまり、「大阪在住のtoroneiさんという一個人」の意見であっても、それが「庶民感情」と言い換えられることによって意味合いは変わってくる。どう変わるかというと、「大阪在住のtoroneiさんという一個人の意見だが、それは『庶民』という集団の感情と同一である」という含意が発生するわけである。
 また、こうした、「含意の発生」を裏付けるかのように、元々のエントリにおいても、toroneiさんという一個人の主張に過ぎなかった文章が、「市井の人たちの素直な気持ちですよ」となっているではないか。「市井」「人たち」という言葉から、toroneiさんは「自分の主張が一般的広がりを持つ」と認識していることが分かる。
 したがって、「庶民を代表して」と明言していなくても、実質的に同じことを述べているわけである。
 もしtoroneiさんが、こうした意識を持つことなく元のエントリを書いておられるのならば、「言葉の使い方があまりにも雑である」と指摘しておく。

「感情だけで物を言ってはいけない」のか――何を言うのかによる

 順序が逆になったが、続いては
>感情だけで物を言ってはいけないの?
について。
 結論を先に言うならば、「何を(どの程度まで)言うかによるでしょう」ということになる。
 第1に、toroneiさんは、上にも書いたとおり、ご自身と異なる意見の持ち主を、感情に基づいて「浮き世に着地していない人たちには分からないようです」と批判しておられる。他人を批判することは自由であるが、単なる感情に基づいた批判は中傷とほとんど違いがない。他人を批判するのならば、「私がそう思うからお前らは変だ」という論法ではなく、きちんとした論理と根拠に基づいて批判を行うべきであろう。この点で、「そういうことまで言いたいのならば、感情だけで物を言ってはいけない」と指摘しておきたい。
 第2に、これは司法に関する問題である。もちろん、司法に関することであっても、自分一人の感情だけに基づいた意見を提示することは、構わない。しかしその際には、自分の意見が、あくまでも「自分一人の」「感情だけ」に基づいているという限界を認識しておかねばならない。しかしtoroneiさんは、ご自身の論の限界を認識できていないようである。司法は、周囲で見ている人間の感情を反映して是非を判断するものではない。そうしたものとは独立に、さまざまな観点から事象を判断するのが司法である。したがって、「感情を反映しているからこの判決は理解できる」という意見が、司法に対する評価として成立していないことを認識するべきだろう。にもかかわらず、toroneiさんは、自分の感情的評価を「一般的に広がりを持つもの」と位置づけ(上述)、そうでない論を「浮き世に着地していない」と批判する(やはり上述)。こうした態度から、toroneiさんはどこかで、「自分の論は単なる感情論だ」ということをお忘れになったのではないかと判断したわけである。
 第3に、これは、他者の行動を規制することにかかわる問題である。他者の行動(それもある程度は憲法で保障された)を、個人的感情で規制することが正当化できるわけがない。その点で、感情だけで物を言うのは問題がある。

結論

 長くなったが、簡単にまとめると、以下のようになる。

1.「庶民」だの「市井」だの「市民社会」だのと、集団的な意識と自分の主張が合致するかのような論法を使っているが、その根拠はどこにあるのか。
2.「代表してない」というが、「庶民」等の用語を持ち出して持論の補強を行っている点で、実質的に「代表」として主張を行っているじゃないか。
3.他者を批判するのなら、感情ではなくきちんとした論理と根拠を示さないと、それは単なる罵倒だろう。

余談

 以下は余談だが、toroneiさんのこのエントリは、
1.「怖い」という理由がビラ配布を制限する根拠となるのか。
2.ビラ配布と街宣を同一視することは妥当か。
3.商業活動と思想の表明を同列に並べて論じられない理由について、きちんと理解できていないのではないか。
4.商業人を「常識が通用する相手」とし、「思想屋」を「時として一般の人の常識が通用しない」としているが、「時として」なんてことを言い出したら、それは「商業人」も同じではないか。例外的な事態は何にでもある。
5.ブクマで「こういう声はある」と述べておられるが、自分の意見を「わざわざ示さなければいけないような希少な『声』(=意見)」であるとするのは、「市井の人たちの素直な気持ち」というのと矛盾している。市井の人たちの意見と同一のものだとするのであれば、わざわざ述べる必要はない。
6.押し売りや宗教の勧誘(ドアを開けて対応しなければいけない)と、街宣(声がいやでも聞こえる)と、ビラ配り(ポストへの投函)とが、toroneiさんにとっては同程度の怖さを喚起することなのか。同程度じゃないのならば、規制の程度や規制される可能性が、それぞれで変わってくる。
など、引っかかる点が他にもあるのだが、元のブクマコメントに私が書いたことではないので、指摘するに留める。 

1点目

 とにかく、1点目について。

問題のエントリを引用

 まず、焦点となったエントリを引用する。以下の文章は、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080411/Xより。

 これを読んで僕はどうしてダウンタウンよりトミーズが好きだった時代が一時期あったか、ナイナイに対する評価が大阪で低かった頃に、ナイナイが好きだったのか分かった気がしました。にづかさんが20歳ぐらいまでは好きだったという、「学校ぽい雰囲気」というのが、僕は自分がお笑いファンになった小学校高学年の頃から苦手だったんですよ、少なくとも「お笑い芸人」にそれは求めていなかった。

 もちろん「学校ぽい雰囲気」なんて空気は、当時リアルに学校に行っていた僕には分からなかったけど、でもダウンタウンは漫才中心だった頃は大好きでよく見ていたけど、「4時ですよ〜だ」で集団コントや若手に罰ゲームをさせるゲームコーナーノリが中心になってきて、少し冷めてしまって「ざまカン」とか見るようになって、「夢で逢えたら」を見るようになって、またダウンタウンを好きで見るようになりました。

大阪時代にダウンタウンの作っていたファミリーは、今ちゃんにしても、東野リーにしても、130Rにしても、それぞれラジオや新喜劇で僕は大好きだったのに、そういう僕が大好きな人たちばかりでやっているはずの、ダウンタウンの番組でコントやゲームが、どうも楽しめなかったんですよね、それは当時は何故か分からなかったけど、そういうノリが10代の頃から自分は好きじゃなかった。という事がいまにして思うと分かる。

だから大阪で凄い孤高みたいな存在になっていた、トミーズとか、ちゃらんぽらんとか、シンプレとか、今にして思えば本当に一匹狼な雰囲気を出していた人たちばかり、好きだったのがよく分かります(笑)。

夢で逢えたら」が良かったのは、ダウンタウンウンナンというのが、凄いお互いがお互いを尊敬していて、仲良しなのにも関わらず、どこかクールで距離を置いている、でもお互いに大好きというのが伝わってきて、もちろん当時はそんな事を言語化しては気付いていないけど、でもそういう大人の友達付き合いみたいな、そういうクールな関係が僕の憧れやすい関係性であり、そういう関係だからこそ出来ていたのが、あの番組の笑いや空気だったと思う。

だからトミーズ、ちゃらんぽらん、シンプレから、すぐにナイナイとよゐこになって、「WACHACHAブーム」の頃にはブームのチョイ前ぐらいから、丁度「笑いの剣」がネタ番組じゃなくなったあたりで、吉本の若手芸人だけの番組を積極的に見なくなっていて、ぜんじろう、ナイナイ、よゐこ藤井隆に意識が移っていたし、「ボキャブラ」の影響で「東京のお笑いは大阪人には笑えない」なんて偏見もなくなっていった。だから「めちゃモテ」のナイナイとよゐこが見ていて悲しかったの、いまだに「めちゃイケ」に対して憎しみがある理由というのが、いまようやく分かったよ(笑)。

(略)

うめだ花月の芸人が用事もないのにbaseよしもとの楽屋に顔を出す、baseよしもとの芸人がワッハでインディーズライブやっている楽屋に顔を出す所なんか、まさに卒業生のOB部活訪問ですね(笑)。

(略)

にづかさんがこういう事を言うと、「自分たちが劇場に積極的に見に行って、大人の男が見れるライブを育てればいいじゃないか」と言う声が出てくるんですが、でもそれは種や芽があれば出来る事で、何にもないところや違う花が咲いているところに水を撒いても、それは育てる事は不可能ですよね、しかもいま「男受け」と言われているライブや芸人だって、あくまでも「大阪のお笑いライブの中では比較的そう」というだけで、本当にそっちなのか? と言われると違う気がするんですよね、なんか「女子中高生が思う、男の子が好きそうなもの」というのを具象化しているだけの気がして仕方ないです。悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

本題のR藤本がフットサルさせられる件についても、簡単にコメントしておきます。

(略)

この時期にR藤本にベジータ以外で露出させるなんて、せっかくのキャラを潰すようなもんですよねえ……、そういう事をどうしてもやりたいのなら、もっと売れてからにしたらいいのに……、いやきっとサイヤ人仕様の特注ユニフォームが、藤本さんには用意されているんですよ、きっとそうに違いありません(笑)。ちなみにベジータ堀川りょうは、OVAの「新・キャプテン」で巨漢DFの次藤洋役で出演しています、というのをご参考までに書いておきます(笑)。

しかし「ヨシモト∞」でジャルジャルに酷い弄られ方していたのを、彷彿とさせるようなイベントに、R藤本にとってはなりそうですねえ……。

焦点となっている部分

 前半はtoroneiさんの遍歴が書かれているだけなので、そこについては触れない。
 焦点となるのは、

うめだ花月の芸人が用事もないのにbaseよしもとの楽屋に顔を出す、baseよしもとの芸人がワッハでインディーズライブやっている楽屋に顔を出す所なんか、まさに卒業生のOB部活訪問ですね(笑)。

(略)

にづかさんがこういう事を言うと、「自分たちが劇場に積極的に見に行って、大人の男が見れるライブを育てればいいじゃないか」と言う声が出てくるんですが、でもそれは種や芽があれば出来る事で、何にもないところや違う花が咲いているところに水を撒いても、それは育てる事は不可能ですよね、しかもいま「男受け」と言われているライブや芸人だって、あくまでも「大阪のお笑いライブの中では比較的そう」というだけで、本当にそっちなのか? と言われると違う気がするんですよね、なんか「女子中高生が思う、男の子が好きそうなもの」というのを具象化しているだけの気がして仕方ないです。悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

の部分だろう。

このエントリ(におけるtoroneiさんの主張部分)の概要

 まずtoroneiさんは、「baseよしもとの空気が学校っぽい」と主張する。その上で、そうした現状を「「女子高生とお年寄りしか行ける劇場がない」という現状」と位置づけ、

なんか「女子中高生が思う、男の子が好きそうなもの」というのを具象化しているだけの気がして仕方ないです。悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

と結論付ける。そういう流れだと理解した。

ブクマで私が指摘したことと、その根拠は何か――「悪いけど」ってことは、肯定的評価じゃないわけですよね。

 さて、問題は、

悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。

の部分である。「悪いけど」と言っているということは、toroneiさん自身は「少女性が強くある」ということを肯定的には見ていない。肯定的な評価を他者に付与するときに「悪いけど」という前ふりが必要になるはずはないだろう。したがって、この部分が含むところを補足しながら書き直すと、「(toroneiさん自身は決していいこととは思っていないので、こういう評価を下すのは)悪いけど〜」という文章となるのではないか。そう読んだため、私は、

「悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、(略)少女性が強くある」って、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20060217/Gなど、「エリート意識」から他者を見下すことを嫌ってませんでしたか?自分がやるのはOKなんですね。

とブクマコメントを書いたわけである。
 自分を枠の外に置き、自分とは異なる嗜好を持つ他者に対して、決して肯定的とは言えない(と自分で考えている)評価を付与することが、「『エリート意識』から他者を見下すこと」ではなくて何だろうか。

toroneiさんの返答

 これに対してtoroneiさんは、次のように返答された。

文面よく見ていますか? 「少女性があること」は凄い事とも書いています、それは貴方が大人の男が「少女性を練っている事」に偏見があるからで、貴方の方が差別しているんです。

どうも、ご自身が書いたことや、ご自身が文章を書いた時の感情をお忘れになっているらしい。「悪いけど」とご自身が書いているではないか。

続けて――「ある一面」って限定をかける意味をご理解してますか?

 また、「『少女性があること』は凄い事とも書いています」というのは、元々の文章と照合させると、微妙にニュアンスが違う。元の文章はこうである。

それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

該当するのは、「ある一面では含むところ無く凄いなとは思います」の部分であろう。
 ブクマコメントだと、無条件に「凄い」と評価しているように書いておられるが、実際は「ある一面では」と限定されている。toroneiさんは、「ある一面では」といった限定をかける意味が分かっておられるのだろうか。これは、「全面的に評価(ここでは「凄い」というもの)が該当するわけないが、ある部分では該当する」ということである。つまり、いずれにせよtoroneiさんは、「全面的に凄いと思っているわけではないが、ある部分では凄いと見ている」=「肯定評価と否定評価が混在している」と主張しておられるわけである。

結論

 このように、2点(「悪いけど」と「ある一面」)から、「toroneiさんは「少女性」を肯定的な意味で使っておられない」と判断したわけである。その上で、「自分が否定的だと考えている評価を他人に付与するのは(toroneiさんの基準からしても)問題なのではなかったか」としたまでにすぎない。つまりは、このブクマコメントは、toroneiさんの文章中/文章間に生じている矛盾を指摘したわけであり、私自身の価値判断を(「矛盾をきたすのはみっともない」というもの以外)含めたものではない。
 したがって、「貴方の方が差別しているんです」という指摘は、私に対する中傷でしかない。自分を棚に挙げた上に、こちらを不当に謗るのはやめていただきたい。

余談

 以下は余談だが、気になるので指摘しておく。
1.「少女性を練っている」とは一体何のことか。
2.http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080408/Bなどで、文章を書く時の基準を「自分が読み書きしていて一番気持ちいいのは、この書き方であり一番自分の喋り言葉に近いリズムが出ている」から、たとえ周囲から指摘されても修正する気はないといったことを書かれておられる。それはそれで別に構わないが、そのような書き方(他人よりも自分を優先した書き方)をした場合、「誤読」が容易に発生することになぜ気づかないのだろうか。また、そんな書き方をしておきながら、今回のブクマ等で「文面よく見ていますか」など、読み手に責任を被せるようなことを言うのはどういった了見か*1。意図をきちんと把握してほしいのならばきちんと書くべきだし、きちんと書きたくないのなら誤解されることを許容すべきであろう。

*1:もっとも、今回のブクマでの指摘は、上で述べたように的外れであったのだが。

反応をいただいたので

 久しぶりに、toroneiさんご自身からブクマへの反応をいただいた。
 一方で、以前出した疑問にはお答えいただいていない。toroneiさんが「反応しよう」「回答しよう」と思う基準は一体何なのだろうか。

結果として

 昨日、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080313/U等の記事にトラバを送ってtoroneiさんに疑問を提示した。
 結果、トラバは(昨日のものだけではなく、しばらく削除されずに残っていた9日のものまで)削除され、3月9日の拙文に付けていただいていた

2008年03月09日 toronei blog, はてな 批判でも中傷まがいになっているトラバは読みたくないし、読ませたくない。貴兄はこういう風に論を組み立てて丁寧に批判できている、ブクマで煽るような口調でするような事からしない方が良かったのでは?

というブクマコメントも削除された。
どうも「なかったこと」にしたいらしい。


 toroneiさんは、少なくとも私が拙ダイアリーで書いている文章については、「こういう風に論を組み立てて丁寧に批判できている」と「丁寧」であること=「中傷」ではないことを示して下さっていた。
 にもかかわらず、批判が続けられると、トラバを削除する。私自身の文体が持つ「丁寧」さは何も変わっていないはずなのだが。このことから考えると、「丁寧」「中傷」であるかどうかということは、トラバを削除するか否かという基準とは無関係なのだろう。「丁寧」さは変わらない私のトラバが、一度は受け入れられ、その後削除されたのだから。

 以上のことを総合すると、

  1. toroneiさんは、「中傷まがいになっているトラバ」だから「読みたくないし、読ませたくない」のではなく、(何らかの理由で)自分が応答できない批判を「なかったこと」にしたいのではないか。
  2. すなわち、(何らかの理由で)応答できないことを、(誰にかは知らないが)「読ませたくない」がため、削除しているのではないか。
  3. 「中傷」とは何かといったことは、toroneiさん自身にとってさほどの問題ではない。「中傷」というのは、単にトラバ削除を正当化する方便なのではないか。

ということが考えられる。
 「中傷だから消すんだ」などと、他人に責任を負わせるようなみっともないことをしないで、「自分は応答できないから消すんだ」「批判が残っているとみっともないから消すんだ」と正直に言った方が、まだいいのではないかと個人的には思う。少なくとも、言動が矛盾を起こすことはないし、一貫しているわけだから。批判から(それが「丁寧」であろうと何だろうと)遁走する姿を見て、率直に言って、あきれた。。私に対して「度胸」をどうこうと言っておられたが(http://b.hatena.ne.jp/toronei/20080224#bookmark-1710375*1、toroneiさんの「度胸」とは一体何なのだろうか。


 ともあれ、toroneiさんが私による批判を「なかったこと」とし、toroneiさんからの反応がない限り、拙ブログを使用し続ける意味はあまりない。したがって、拙文に対するtoroneiさんからの応答がない限り、本日のこの文章をもってダイアリーの使用を停止し、またブクマの使用を主とすることにする。長文で述べる必要があったり、toroneiさんの反論への再反論が必要な場合は、ダイアリー使用を復活させることになるかもしれないが。
 なお、9日に、

私の主観では、実際に、「丁寧」な文面を備えた批判もなかったことにされた例を見てきた(これについては今後取り上げる)

と書いたが、これについては中止することにする。toroneiさんがどういった批判を削除してきているのかを、ブクマ経由で拾い上げていき*2、本当に「中傷」なのかを問うていこうかと思っていたのだが、toroneiさんから反応がない以上、そのようなことをしても意味がないためである。

*1:どうでもいいが、toroneiさんのこのブクマコメントも事実誤認がある。

*2:ブクマには、リンクされていることが表示されているので、ダイアリーと照合すれば削除されたかどうかが判別可能だろうと思ったため。

toroneiさんからの応答来ず

前の日記で、私は、

「読みたくない」という部分だけならば、「どの部分が『読みたくない』かを言えばそれは別にかまわないだろう」と思えるのだが、なぜそれを他人に「読ませたくない」のか。その理由が全く明らかになっていない。「読ませたくない」ということが、トラバ削除の理由の大部分を占めていると思われるので、なぜ、中傷的なものだと読者に「読ませたくない」のかをきちんと説明していただければありがたい。

また、念のために言っておきたいが、私は「煽るような口調」を用いたという意識を持っていない。どれが、なぜ「煽るような口調」と判断できるのか、指摘してもらえればもう少し考える余地も出るが、これだけでは何とも言いようがない。

このエントリの最後に、一点質問したい。toroneiさんは、「批判」と「中傷」にそれぞれいかなる定義や判断基準を持っておられるのだろうか。

という3つの問いをtoroneiさんに向けて出した。
つまり、「読ませたくないって何で?」「煽るって何が?それを言ってもらえないと、ブクマを省みようもないよ」「批判・中傷の定義を教えて」という3つの問いである。
しかし、その後、toroneiさんから説明をいただけていない。
一方では、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080311/Ahttp://d.hatena.ne.jp/toronei/20080313/Uといった、「toroneiさん自身によるブログ論」を続けて書かれている。この、toroneiさん自身によるブログ論が、何らかの応答になっているのかと思って読んでいたが、こちらが指摘したことを考慮しておられる様子も全くないし、こちらが問うたことを説明していただけているわけでもない。
それどころか、

基本的に僕は自分基準において「付き合う人」「付き合わない人」を決めるのは、大事な自己防衛だと思います。http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080311/A

だとか、

こういった事やブクマなどの評判を気にしてまで、個人の趣味のブログはやるべきではない。そっちに気を遣うぐらいなら、とにかく駄文でも書き散らしでも落書きでも良いから、とにかく書いておく事の方が大事です。ブログは深夜ラジオやトークライブと同じ、とにかく何でも良いから喋るのと同じ気持ちで書くことが大事、僕がこのブログを始めたときに最初に考えた事は「深夜ラジオのフリートークのノリ」でしたが、いまこうやってやつていて思うのは、喋った方が楽かなあと思うぐらい、文法や文章の正確性よりも、喋り言葉に近い書き方でライブ感を出す、とにかく間違っていても良いからその時の感情を優先する事、「どれだけ遅れてもその日の話をその日に書く」というのも、そういう考えを元にしてやつている。http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080313/U

だとか、自分のブログで付き合う人は「自分基準」であること、自分のブログに価値はないということ、自分が書いたことに無責任であることを正当化する文章を乱発しておられる。
別に、自分基準で付き合う人を決めること自体もかまわないし、無責任なものを書いていると自覚していること自体も結構なことであるが。どうしても私には疑問が浮かぶ。以下、疑問を述べていく。

(1)toroneiさんは、「付き合う/付き合わない」ということと、「(コメントや)トラバを許可する/削除する」ということをイコールで考えておられるのではないか。

これまでに問題視されてきた(そして私も指摘した)、批判トラバの削除は、「付き合う/付き合わない」といった次元とは別の問題である。「批判トラバに答える/答えない」ならばイコールで結びつけることもある程度妥当かもしれないが。トラバを削除するということは、「自分への批判と付き合わない」ということではなく、「自分への批判を不可視化する/抹消する」というものと近い。トラバ削除を正当化したいのなら、付き合い方とは別の次元で正当性を論じる必要があるはずであろう。

(2)無価値であるとしつつ、批判を消すのはなぜか

自分で「ブログは無価値」とするのなら、なぜ批判的なトラバを削除するのか。また、なぜ「読ませたくない」などと、読者からの評価を気にするのか。無価値なものと思っているのなら、批判も含めて読者の読みに任せればいいではないか。にもかかわらず、特定の批判を、基準を示すことなく「中傷」と非難し削除するのか。結局のところ、toroneiさんは、「批判によってブログの価値が減ずる」と考えており、だからこそ「ブログの読者に読ませたくない」と考えておられるのではないか。要するに、「無価値である」ということと、「読ませたくない」という態度は両立しないのである。「読ませたくない」というのは、自分の書いたものを保護し、自分の書いたものへの読者の評価を守ろうとする人が取るべき態度なのだから。

(3)無責任さの正当化が達成できていないことと、その他に考えるべき無責任さがあること

3点目。toroneiさんは、

とにかく何でも良いから喋るのと同じ気持ちで書くことが大事、僕がこのブログを始めたときに最初に考えた事は「深夜ラジオのフリートークのノリ」でしたが、いまこうやってやつていて思うのは、喋った方が楽かなあと思うぐらい、文法や文章の正確性よりも、喋り言葉に近い書き方でライブ感を出す

とし、自分は「正確性」よりも「ライブ感」を重視していること、だからこそ、「文法や文章の正確性」が結果的に損なわれていても、それに責任を持とうとしていないことを述べておられる。これは2つの点でおかしい。
第1に、「文法や文章の正確性」と「ライブ感」は二者択一のものではない。「文法や文章」を「正確」にしつつ「ライブ感」を出すことは可能である。「ライブ感を保とうとしているがゆえに、文法や文章が正確でなくなる」などと主張したら、モデルとしておられる「深夜ラジオ」の担い手が怒るだろう。また、世の中に多く存在する、「ライブ感」を備えてニュースを発信している人に失礼である。たとえば、句点と読点をきちんと使い分けないことで、どれだけ読みにくくなっているか。そして、きちんと使い分けることにどれだけの手間が必要なのか。ご自分の文章に対する雑さを、一般化・必然視するのはやめたほうが良かろう。
第2に、toroneiさんが問題視されているのは、「文法や文章」の正確性だけではない。事実に関しても、正確性を欠いていることが結構ある。たとえば、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080310/Dでは

日本のスポーツ選手とか、アーティストって絶対に自分たちの商売の邪魔にならない程度にしか、物言わないですよね

などとおっしゃっているが、ブクマでも指摘したとおり、フリーチベットを訴え続けている日本のアーティストは多い(スポーツ選手については、私は知らないので述べない)。その他にも、事実を誤認しておられる例は多い。こんなことは、googleでも用いて少し調べれば分かることである。
toroneiさんは、ここのところの文章において、「事実に対する正確な把握が欠けている」というこれまでなされてきた指摘を、意識的にか無意識的にか無視しておられるようだが、こちらについての正当化はどのようにやっていくおつもりなのだろうか。言うまでもないが、「ライブ感」ということで、事実への正確性の欠落が正当化されることはない。

(4)やや蛇足ではあるが

最後に。やや蛇足ではあるが、

とにかく間違っていても良いからその時の感情を優先する事、「どれだけ遅れてもその日の話をその日に書く」というのも、そういう考えを元にしてやつている。更新が遅れたけど書きたい事があるときは、この日にどう思っていたかを思い出してその時の気持ちを書く、思い出せなくなったことや、後日談で思いが更新されたものは書かないけど、更新されなかったものは書く、ただ後日談の方には触れない事もある。

というtoroneiさんの方針について、これには例外が存在することを指摘しておきたい。過去にブクマで指摘されていることでもあるが、toroneiさんは、「その日の話」じゃないものを「その日」のこととして書いたことがあり、それによって自らへの批判が出ないように(意識的にか無意識的にかは分からないが、結果として)したことがある。関連するlookeastさんのブクマを引用する。

5月23日に書き込まれたコメントに反応しているということは、この記事は23日以降に書かれたものですよね。では何故20日付としてアップしてるんですか?こんな姑息な手段で反論から逃れようとしても無駄な努力ですよhttp://b.hatena.ne.jp/lookeast/20070523#bookmark-4796125

どのような方針を持たれようと構わないし、遅れて更新しても別に問題はないと思うのだが、「自分はこうやっているつもりだ」というものと、実際の振る舞いとが一致していないので、指摘させていただく。

以上

以上である。前のエントリに関して、何らかのアクションがいただけるかと思いしばらく待ったのだが、何もないようなので、私が感じたことを新たに指摘させていただいた。
また、ブクマについても「何が『煽り』なのか」という説明もいただけておらず、そのため私としてはどういった対処もできない。元々私には「煽り」などという意図はなかったので、toroneiさんにご説明いただけない以上、自らに問題があるようにも思えない。したがって、今後とも、ブクマコメントを、主に短文で指摘できるものについて用いていこうと思う。