1点目

 とにかく、1点目について。

問題のエントリを引用

 まず、焦点となったエントリを引用する。以下の文章は、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080411/Xより。

 これを読んで僕はどうしてダウンタウンよりトミーズが好きだった時代が一時期あったか、ナイナイに対する評価が大阪で低かった頃に、ナイナイが好きだったのか分かった気がしました。にづかさんが20歳ぐらいまでは好きだったという、「学校ぽい雰囲気」というのが、僕は自分がお笑いファンになった小学校高学年の頃から苦手だったんですよ、少なくとも「お笑い芸人」にそれは求めていなかった。

 もちろん「学校ぽい雰囲気」なんて空気は、当時リアルに学校に行っていた僕には分からなかったけど、でもダウンタウンは漫才中心だった頃は大好きでよく見ていたけど、「4時ですよ〜だ」で集団コントや若手に罰ゲームをさせるゲームコーナーノリが中心になってきて、少し冷めてしまって「ざまカン」とか見るようになって、「夢で逢えたら」を見るようになって、またダウンタウンを好きで見るようになりました。

大阪時代にダウンタウンの作っていたファミリーは、今ちゃんにしても、東野リーにしても、130Rにしても、それぞれラジオや新喜劇で僕は大好きだったのに、そういう僕が大好きな人たちばかりでやっているはずの、ダウンタウンの番組でコントやゲームが、どうも楽しめなかったんですよね、それは当時は何故か分からなかったけど、そういうノリが10代の頃から自分は好きじゃなかった。という事がいまにして思うと分かる。

だから大阪で凄い孤高みたいな存在になっていた、トミーズとか、ちゃらんぽらんとか、シンプレとか、今にして思えば本当に一匹狼な雰囲気を出していた人たちばかり、好きだったのがよく分かります(笑)。

夢で逢えたら」が良かったのは、ダウンタウンウンナンというのが、凄いお互いがお互いを尊敬していて、仲良しなのにも関わらず、どこかクールで距離を置いている、でもお互いに大好きというのが伝わってきて、もちろん当時はそんな事を言語化しては気付いていないけど、でもそういう大人の友達付き合いみたいな、そういうクールな関係が僕の憧れやすい関係性であり、そういう関係だからこそ出来ていたのが、あの番組の笑いや空気だったと思う。

だからトミーズ、ちゃらんぽらん、シンプレから、すぐにナイナイとよゐこになって、「WACHACHAブーム」の頃にはブームのチョイ前ぐらいから、丁度「笑いの剣」がネタ番組じゃなくなったあたりで、吉本の若手芸人だけの番組を積極的に見なくなっていて、ぜんじろう、ナイナイ、よゐこ藤井隆に意識が移っていたし、「ボキャブラ」の影響で「東京のお笑いは大阪人には笑えない」なんて偏見もなくなっていった。だから「めちゃモテ」のナイナイとよゐこが見ていて悲しかったの、いまだに「めちゃイケ」に対して憎しみがある理由というのが、いまようやく分かったよ(笑)。

(略)

うめだ花月の芸人が用事もないのにbaseよしもとの楽屋に顔を出す、baseよしもとの芸人がワッハでインディーズライブやっている楽屋に顔を出す所なんか、まさに卒業生のOB部活訪問ですね(笑)。

(略)

にづかさんがこういう事を言うと、「自分たちが劇場に積極的に見に行って、大人の男が見れるライブを育てればいいじゃないか」と言う声が出てくるんですが、でもそれは種や芽があれば出来る事で、何にもないところや違う花が咲いているところに水を撒いても、それは育てる事は不可能ですよね、しかもいま「男受け」と言われているライブや芸人だって、あくまでも「大阪のお笑いライブの中では比較的そう」というだけで、本当にそっちなのか? と言われると違う気がするんですよね、なんか「女子中高生が思う、男の子が好きそうなもの」というのを具象化しているだけの気がして仕方ないです。悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

本題のR藤本がフットサルさせられる件についても、簡単にコメントしておきます。

(略)

この時期にR藤本にベジータ以外で露出させるなんて、せっかくのキャラを潰すようなもんですよねえ……、そういう事をどうしてもやりたいのなら、もっと売れてからにしたらいいのに……、いやきっとサイヤ人仕様の特注ユニフォームが、藤本さんには用意されているんですよ、きっとそうに違いありません(笑)。ちなみにベジータ堀川りょうは、OVAの「新・キャプテン」で巨漢DFの次藤洋役で出演しています、というのをご参考までに書いておきます(笑)。

しかし「ヨシモト∞」でジャルジャルに酷い弄られ方していたのを、彷彿とさせるようなイベントに、R藤本にとってはなりそうですねえ……。

焦点となっている部分

 前半はtoroneiさんの遍歴が書かれているだけなので、そこについては触れない。
 焦点となるのは、

うめだ花月の芸人が用事もないのにbaseよしもとの楽屋に顔を出す、baseよしもとの芸人がワッハでインディーズライブやっている楽屋に顔を出す所なんか、まさに卒業生のOB部活訪問ですね(笑)。

(略)

にづかさんがこういう事を言うと、「自分たちが劇場に積極的に見に行って、大人の男が見れるライブを育てればいいじゃないか」と言う声が出てくるんですが、でもそれは種や芽があれば出来る事で、何にもないところや違う花が咲いているところに水を撒いても、それは育てる事は不可能ですよね、しかもいま「男受け」と言われているライブや芸人だって、あくまでも「大阪のお笑いライブの中では比較的そう」というだけで、本当にそっちなのか? と言われると違う気がするんですよね、なんか「女子中高生が思う、男の子が好きそうなもの」というのを具象化しているだけの気がして仕方ないです。悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

の部分だろう。

このエントリ(におけるtoroneiさんの主張部分)の概要

 まずtoroneiさんは、「baseよしもとの空気が学校っぽい」と主張する。その上で、そうした現状を「「女子高生とお年寄りしか行ける劇場がない」という現状」と位置づけ、

なんか「女子中高生が思う、男の子が好きそうなもの」というのを具象化しているだけの気がして仕方ないです。悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

と結論付ける。そういう流れだと理解した。

ブクマで私が指摘したことと、その根拠は何か――「悪いけど」ってことは、肯定的評価じゃないわけですよね。

 さて、問題は、

悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、実年齢が20代や30代で、性別が男性でも、精神的に少女性が強くある人のように思えてならない。

の部分である。「悪いけど」と言っているということは、toroneiさん自身は「少女性が強くある」ということを肯定的には見ていない。肯定的な評価を他者に付与するときに「悪いけど」という前ふりが必要になるはずはないだろう。したがって、この部分が含むところを補足しながら書き直すと、「(toroneiさん自身は決していいこととは思っていないので、こういう評価を下すのは)悪いけど〜」という文章となるのではないか。そう読んだため、私は、

「悪いけどいまの大阪の若手の笑いを楽しめる人は、(略)少女性が強くある」って、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20060217/Gなど、「エリート意識」から他者を見下すことを嫌ってませんでしたか?自分がやるのはOKなんですね。

とブクマコメントを書いたわけである。
 自分を枠の外に置き、自分とは異なる嗜好を持つ他者に対して、決して肯定的とは言えない(と自分で考えている)評価を付与することが、「『エリート意識』から他者を見下すこと」ではなくて何だろうか。

toroneiさんの返答

 これに対してtoroneiさんは、次のように返答された。

文面よく見ていますか? 「少女性があること」は凄い事とも書いています、それは貴方が大人の男が「少女性を練っている事」に偏見があるからで、貴方の方が差別しているんです。

どうも、ご自身が書いたことや、ご自身が文章を書いた時の感情をお忘れになっているらしい。「悪いけど」とご自身が書いているではないか。

続けて――「ある一面」って限定をかける意味をご理解してますか?

 また、「『少女性があること』は凄い事とも書いています」というのは、元々の文章と照合させると、微妙にニュアンスが違う。元の文章はこうである。

それぐらい完全に女子中高生向けに強力にシフトしている文化を楽しめる感性というのは、ある一面では含むところ無く凄いなとは思いますけどね、夢枕漠や高橋源一郎が少女漫画を語るように、そういうお笑い文化の肯定については、大人の男性に語って貰いたい。

該当するのは、「ある一面では含むところ無く凄いなとは思います」の部分であろう。
 ブクマコメントだと、無条件に「凄い」と評価しているように書いておられるが、実際は「ある一面では」と限定されている。toroneiさんは、「ある一面では」といった限定をかける意味が分かっておられるのだろうか。これは、「全面的に評価(ここでは「凄い」というもの)が該当するわけないが、ある部分では該当する」ということである。つまり、いずれにせよtoroneiさんは、「全面的に凄いと思っているわけではないが、ある部分では凄いと見ている」=「肯定評価と否定評価が混在している」と主張しておられるわけである。

結論

 このように、2点(「悪いけど」と「ある一面」)から、「toroneiさんは「少女性」を肯定的な意味で使っておられない」と判断したわけである。その上で、「自分が否定的だと考えている評価を他人に付与するのは(toroneiさんの基準からしても)問題なのではなかったか」としたまでにすぎない。つまりは、このブクマコメントは、toroneiさんの文章中/文章間に生じている矛盾を指摘したわけであり、私自身の価値判断を(「矛盾をきたすのはみっともない」というもの以外)含めたものではない。
 したがって、「貴方の方が差別しているんです」という指摘は、私に対する中傷でしかない。自分を棚に挙げた上に、こちらを不当に謗るのはやめていただきたい。

余談

 以下は余談だが、気になるので指摘しておく。
1.「少女性を練っている」とは一体何のことか。
2.http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080408/Bなどで、文章を書く時の基準を「自分が読み書きしていて一番気持ちいいのは、この書き方であり一番自分の喋り言葉に近いリズムが出ている」から、たとえ周囲から指摘されても修正する気はないといったことを書かれておられる。それはそれで別に構わないが、そのような書き方(他人よりも自分を優先した書き方)をした場合、「誤読」が容易に発生することになぜ気づかないのだろうか。また、そんな書き方をしておきながら、今回のブクマ等で「文面よく見ていますか」など、読み手に責任を被せるようなことを言うのはどういった了見か*1。意図をきちんと把握してほしいのならばきちんと書くべきだし、きちんと書きたくないのなら誤解されることを許容すべきであろう。

*1:もっとも、今回のブクマでの指摘は、上で述べたように的外れであったのだが。

2点目

 続けて、今回返答いただいた2つ目のブクマについてである。

問題のエントリを引用

 ここでも、まず焦点となっているエントリを引用する。引用はhttp://d.hatena.ne.jp/toronei/20080413/Bより。

 いやあマジで怖いよ、そういうビラ配る人が団地やマンションに入ってくるって、右翼の街宣車と同じぐらい、宗教と左翼のビラ配りの人たちが、マンションや団地の共有スペースに入ってくるのは、市民社会にとって驚異であるということを、浮き世に着地していない人たちには分からないようです。まして庶民感情として、ピザ屋と政治・宗教・思想団体のチラシを捲きに来る人の違いは歴然とある事は、市井の人たちの素直な気持ちですよ、思想の内容は関係ない。左だろうが右だろうが、そういう人が入ってくるのは、良い悪いではなく単純に怖いという気持ちはある。

(略)

一般の人の常識が通用する相手なんだから、商業人の方が来ても怖くないよね、思想屋は時として一般の人の常識が通用しないんだから、居住スペースに入ってきてほしくない連中と思われるのは仕方ないでしょう。右翼の街宣車と同じぐらい、思想団体や宗教のチラシ配りの人が入ってくるのは怖いし迷惑です。

ご自身の体験(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080411/U)をふまえて、ビラ配りが住居にビラを配ることを規制するのは、当然であるとみなす。そうした判断は、「庶民感情」「市井の人たちの素直な気持ち」において妥当であるとするもの。

ブクマで私が指摘したこと――toroneiさんの感情が、なぜ「庶民感情」「市井の人たちの素直な気持ち」と同一化されるのですか

 こうしたエントリに私が付けたブクマコメントは以下の通りである。

判決の妥当性についてはおいておくとしても、このエントリは、何の根拠もなく、「自分の主張=庶民感情」としているだけ。「庶民感情」って一体何ですか。しかし、「感情」で司法判断を論じるのも、すごい態度だ。

 「判決がいいか悪いか」という判断そのものについては議論する気はない。いろいろな観点や根拠によって、論じられるだろうし、それぞれに正当性がありうるから。
 私が、toroneiさんの文章に違和感を持ったのは、「toroneiさん」という特定の個人の感情が、いつの間にか「庶民感情」と言い換えられ、さらにそれが「市井の人たちの素直な気持ち」とすり替わっているからである。
 toroneiさんが、ご自身の体験に基づいて、「私はこういう体験をしたので、この判決は理解できる」とするに留めるのならば異論はない。しかしtoroneiさんのこのエントリは、それ以上のことを言っている。toroneiさんのこのエントリでは、あくまでもご自身の感情に基づいただけのものである「判決は理解できる」という判断が、「市井の人たちの素直な気持ち」と類似するものと位置づけられ、それによってこうした判決を妥当視する人が一般に多いかのように論じられているわけである。
 しかも、それだけではなく、判決に異論を唱える人に対し「浮き世に着地していない人たちには分からないようです」と批判しておられる。ここでも、「『浮き世』=世の中で一般的になっている(あるいはそうなるべきである)のはtoroneiさんの判断である」という論が(元々はご自身の体験談でしかなかったのに)すり替わっているのである。

誤解しないでいただきたいのだが――自分の意見を一般化させる方法はあるし、きちんとすれば問題はない

 「浮き世」で一般的な意見が何なのか、「庶民感情」や「市井の人たちの素直な気持ち」が何なのか、根拠を(たとえば意識調査などがあるのなら)示した上で、論ずるのなら、別に問題はなかろう。ただ、toroneiさんの場合は、そうした手続きを何も踏んでいないわけである。

toroneiさんの反応は

こうした思いを背景に持ち、上述したようなブクマコメントをつけたわけである。そうしたところ、toroneiさんからブクマで反応があった。以下に引用する。

感情だけで物を言ってはいけないの? あと自分の感情=庶民感情、何が間違い? 「庶民を代表して」と言っているのならともかく(笑) 多くの反応はその通り、でもあえて言わなきゃと思った、こういう声はあるとね。

これは、私に向けられているであろう部分とそうでない部分とがあるが、私のブクマコメントに該当するもの(ゆえに私にも向けられていると思われるもの)については項目に分けて反論を行う。

間違いも何も、根拠が全くないじゃないですか

まず、
>自分の感情=庶民感情、何が間違い?
について。
 この反応には、2つの点でおかしさがある。
 1点目は、「『庶民』とは何か」ということである。toroneiさんは一体何をもって「庶民」と位置づけているのか。それがあいまいであれば、「『(実体の不明な)庶民』の感情」を云々したところで、何の意味もなさない。
 次は、「本当にtoroneiさんの意見が『庶民感情』なのか」ということである。toroneiさんが何を「庶民」としているのか分からないが、なぜ自分の感情を「庶民感情」と同一視できるのだろうか。この点が全く分からない。こうした2点が明らかでないため、
>自分の感情=庶民感情、何が間違い?
という反応には「間違いも何も、自分の主張と『庶民感情』が一致することに関して何の根拠も示してないじゃないですか(間違いかどうかを判定する以前の問題です)」とお返事しておきたい。

要するに、ブクマコメントで私が既に指摘していることなのだが、どうもtoroneiさんの目には入ってなかったようである。

「庶民」って言葉は、背後に集団が存在することを前提としている言葉ですよ

続いて、
>「庶民を代表して」と言っているのならともかく(笑)
について。
 この反応からは、toroneiさんが、そもそも「庶民」という言葉をきちんと理解していないことがうかがえる。
「庶民」などの言葉は(たとえば「国民」や「市民」などもそうだが)、たとえ単一の人間を示す意味で使っていたとしても、その背後に何らかの集団が存在することを前提とする言葉である。つまり、「大阪在住のtoroneiさんという一個人」の意見であっても、それが「庶民感情」と言い換えられることによって意味合いは変わってくる。どう変わるかというと、「大阪在住のtoroneiさんという一個人の意見だが、それは『庶民』という集団の感情と同一である」という含意が発生するわけである。
 また、こうした、「含意の発生」を裏付けるかのように、元々のエントリにおいても、toroneiさんという一個人の主張に過ぎなかった文章が、「市井の人たちの素直な気持ちですよ」となっているではないか。「市井」「人たち」という言葉から、toroneiさんは「自分の主張が一般的広がりを持つ」と認識していることが分かる。
 したがって、「庶民を代表して」と明言していなくても、実質的に同じことを述べているわけである。
 もしtoroneiさんが、こうした意識を持つことなく元のエントリを書いておられるのならば、「言葉の使い方があまりにも雑である」と指摘しておく。

「感情だけで物を言ってはいけない」のか――何を言うのかによる

 順序が逆になったが、続いては
>感情だけで物を言ってはいけないの?
について。
 結論を先に言うならば、「何を(どの程度まで)言うかによるでしょう」ということになる。
 第1に、toroneiさんは、上にも書いたとおり、ご自身と異なる意見の持ち主を、感情に基づいて「浮き世に着地していない人たちには分からないようです」と批判しておられる。他人を批判することは自由であるが、単なる感情に基づいた批判は中傷とほとんど違いがない。他人を批判するのならば、「私がそう思うからお前らは変だ」という論法ではなく、きちんとした論理と根拠に基づいて批判を行うべきであろう。この点で、「そういうことまで言いたいのならば、感情だけで物を言ってはいけない」と指摘しておきたい。
 第2に、これは司法に関する問題である。もちろん、司法に関することであっても、自分一人の感情だけに基づいた意見を提示することは、構わない。しかしその際には、自分の意見が、あくまでも「自分一人の」「感情だけ」に基づいているという限界を認識しておかねばならない。しかしtoroneiさんは、ご自身の論の限界を認識できていないようである。司法は、周囲で見ている人間の感情を反映して是非を判断するものではない。そうしたものとは独立に、さまざまな観点から事象を判断するのが司法である。したがって、「感情を反映しているからこの判決は理解できる」という意見が、司法に対する評価として成立していないことを認識するべきだろう。にもかかわらず、toroneiさんは、自分の感情的評価を「一般的に広がりを持つもの」と位置づけ(上述)、そうでない論を「浮き世に着地していない」と批判する(やはり上述)。こうした態度から、toroneiさんはどこかで、「自分の論は単なる感情論だ」ということをお忘れになったのではないかと判断したわけである。
 第3に、これは、他者の行動を規制することにかかわる問題である。他者の行動(それもある程度は憲法で保障された)を、個人的感情で規制することが正当化できるわけがない。その点で、感情だけで物を言うのは問題がある。

結論

 長くなったが、簡単にまとめると、以下のようになる。

1.「庶民」だの「市井」だの「市民社会」だのと、集団的な意識と自分の主張が合致するかのような論法を使っているが、その根拠はどこにあるのか。
2.「代表してない」というが、「庶民」等の用語を持ち出して持論の補強を行っている点で、実質的に「代表」として主張を行っているじゃないか。
3.他者を批判するのなら、感情ではなくきちんとした論理と根拠を示さないと、それは単なる罵倒だろう。

余談

 以下は余談だが、toroneiさんのこのエントリは、
1.「怖い」という理由がビラ配布を制限する根拠となるのか。
2.ビラ配布と街宣を同一視することは妥当か。
3.商業活動と思想の表明を同列に並べて論じられない理由について、きちんと理解できていないのではないか。
4.商業人を「常識が通用する相手」とし、「思想屋」を「時として一般の人の常識が通用しない」としているが、「時として」なんてことを言い出したら、それは「商業人」も同じではないか。例外的な事態は何にでもある。
5.ブクマで「こういう声はある」と述べておられるが、自分の意見を「わざわざ示さなければいけないような希少な『声』(=意見)」であるとするのは、「市井の人たちの素直な気持ち」というのと矛盾している。市井の人たちの意見と同一のものだとするのであれば、わざわざ述べる必要はない。
6.押し売りや宗教の勧誘(ドアを開けて対応しなければいけない)と、街宣(声がいやでも聞こえる)と、ビラ配り(ポストへの投函)とが、toroneiさんにとっては同程度の怖さを喚起することなのか。同程度じゃないのならば、規制の程度や規制される可能性が、それぞれで変わってくる。
など、引っかかる点が他にもあるのだが、元のブクマコメントに私が書いたことではないので、指摘するに留める。 

以上

 今のところ、今回は以上である。
 私はコメント欄も開放しているし、トラバが来ても削除したりしないので、toroneiさんからのご返答をお待ちしたい。
 また、以前問うたことへのご返答もまだいただけていない状況なので(ブクマで反応するのならば、こっちを先にやってほしいという思いがあるが)、そちらもお待ちしている。