toroneiさんの記事(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080308/E)を読んで、興味深く思った。
一度ブックマークでもコメントをつけたが、もう少しきちんと述べる必要があるようにも思ったので、ブックマークは削除してトラバを飛ばす。
なお、今後は、このダイアリーをメモ帳として使っていくことにする。

話し合うことが出来ない間柄というのはいる、人は解り合えないというのが自分がネットで学んだことです。たまに話が通じない相手というのは、賛同者でもいるからタチが悪い。同じ日本語を使っていても、言葉が通じない相手というのは多い。

これは正しい。通じない相手というのは、ネットに限らず、現実世界でもいる。

SNSに引きこもったり、丁寧な文面でメールやトラバしてくる人としか相手しなくて良いと決めてから、自分はネットでブログの更新とかが出来るようになった。

ここは変。toroneiさんが「相手」をしているのは、自分に賛同する人のメールやトラバのみである。本来であれば、「丁寧な文面」と批判が両立することもある。私の主観では、実際に、「丁寧」な文面を備えた批判もなかったことにされた例を見てきた(これについては今後取り上げる)。「丁寧な文面」じゃないことを理由に「相手」をしないのならば、どの辺が「丁寧」でないのかを指摘するべきである。それが、toroneiさんのブログに「価値を見いだしてくれる、ありがたい人」も含めた読者への説明責任であろう。
また、toroneiさんは、以前「評論」について語っておられた(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070516/A)。ここでは、芸人に対して、

いまの評論されるの許さない的なことを言ってる芸人さんは、「自分たちは芸人なんだから、笑いの為なら何しても良い」というのを直ぐに振りかざすクセに、自分たちが批評や批判の対象にあうことには、極点に嫌悪感を示したり臆病になって、上の立場からそれを封じようとするのは、矛盾しないかい?

と述べておられる。この文章自体は正しいのだが、問題は、この文章がtoroneiさん自身にも返ってくることを理解しておられない(あるいは理解していながら、あえて自分に返していない)ことである。
toroneiさんの文章が「評論」ならば、「『toroneiさんの評論』に対する評論」もまたされて当然。それを「極点に嫌悪感を示したり臆病になって(略)封じようとするのは、矛盾しないかい?」。無視するなら無視するでいいだろうし、コメント欄を閉じるのも勝手。だが、批判トラバを削除してしまい、なかったことにする(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070516/B)のは批判者の言論を封じることに他ならない。

結局言いっぱなしの無価値のものと自分で先に認めるのが大事、そうしたら自然に書けるようになってくる。そしてそんなものにも価値を見いだしてくれる、ありがたい人たちにだけ向けてやっていけばいい。

この文章も、これ自体では正しい。だが、toroneiさんが文章を書いている媒体がブログであることを考えると、おかしくなってくる。toroneiさんのブログが、それこそ「SNSに引きこもったり」した、完全にプライベートなものならば、どんな暴論が吐かれていようが、気にしない。しかし、現段階では、文章は誰でもが読める状態にされ、パブリックなものとされている。パブリックな状態にし、方々にトラバを飛ばして、多くのことに論評を加えておきながら、「言いっぱなしの無価値のもの」と言ってしまうのは、結局のところ責任逃れにしかならない。自分自身で「無価値」と思うのは自由であるが、公開している以上、その「無価値」なものが、toroneiさんの思惑を外れたところで、何らかの影響を及ぼす可能性もある。結果として「無価値」ではなくなる可能性もある。したがって、パブリックな場で文章を書いている以上、自分の文章(とそれへの反応)に対してどこかで責任を取らなければいけないことは自覚すべきであろう。

特に「行間を読んで欲しい」文章というのは、ほとんどの人がそんなものは読めないと思った方が良い。自分にそれを伝える能力もなければ、世間の人にそれを読み取る力も両方無いと思うべき、その上でそれを理解してくれる人が僅かでもいることを期待するのなら、大多数に誤解されるのを覚悟して書くべき、その結果、馬鹿なブクマコメント満載になっても、少数でも理解してくれる人に届くことを大事とすべき。

この文章も、それ自体では正しい。しかしtoroneiさんは、これまで、「誤解」が生じたときに、誤解した人間に多くの責任を着せ(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070525/Cなど)、自分の文章の持つ「伝える能力」を省みることは、(ゼロではないが、相手に責任を着せるのと比較して)少なかった。「大多数に誤解されるのを覚悟して書くべき」というのももっともだし、すばらしい心構えだとは思うが、これまでの言動と一致していない。また、「誤解されるのを覚悟」するだけではなくて、同時に、誤解される可能性をできるだけ減らそうとすることもまた必要だろう。

追記
トラバの設定がよく分からず、変な飛ばし方をしてしまったかもしれません。もしそうであった場合は、お手数をかけてしまったことをtoroneiさんにお詫び申し上げます。