光市の事件について

 toroneiさんの書かれた、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080422/Fにブクマを付けてコメントしたところ、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080423/Oという新しい日記で

前回の件へのブクマのネガティヴ反応については、色々と面白い意見を貰ったけど、さすがにそれを自分の一存では紹介できないので、その人たちがブログエントリーなどにしてくれるの待ちます(笑)。

と書かれたため、ここを使って、再度指摘をしていこうかと思う。もしかしたら、私の意見は「面白い意見」の中に含まれないのかもしれないが、「面白い意見」の内実が示されていないため、私のものも含まれている可能性が排除できず、「そうおっしゃるなら」と思ってここを使う次第である。

最初に断り書き

 最初に以下のことを断っておく。

1.事件に対する判断そのもの(判決は正しかったのか、そうでなかったのか)を争う気はない。
2.私個人としては、今回出された判決は理解できる(と言うよりも、「そうだろう」という感想を持った)。
3.弁護団の弁護には、信じがたい部分はある(ただし、だからと言ってしてはいけない弁護とはならないと考えるし、被告が望んでいるのならば、ああした弁護を取ることもありうるだろうと思う)。
4.問題としたいのは、裁判や判決に対するtoroneiさんの理解のしかたであったり、裁判や判決の背後にある世界へのtoroneiさんの解釈の部分である。

 以下からは、ブクマコメントで分けた項目それぞれについて補足を行う。

1.本村さんは「田舎の高卒」ではなかったはず

 toroneiさんは、本村さんを以下のような人間と見なしている。

 おそらく国立大とか出てる可能性が高い、アサヒの女がこの程度の見識で、田舎の一青年がここまで渡り合える、というか完全に勝っているんだから、立派と言うしかないです。

 本村さんは、本当によく頑張ったと思います、誤解を恐れずに言えば田舎の高卒の一介のサラリーマンが、日本のトップクラスの法曹界の人間はもちろん、マスコミ人、知識人などとこの九年間渡り合ってきたのは、どれだけ大変な事であり、それらの壁を突破するというのが、どれだけ困難な事であり、決して「愚鈍な大衆を上手く煽って、感情的に流れるようにし向けた」なんて単純な事ではない。

 まとめると、

1.本村さんは、「田舎の一青年」「田舎の高卒の一介のサラリーマン」である。
2.「法曹界の人間」「マスコミ人」「知識人」と渡り合うことは「大変」「壁を突破する」のが「困難」とされていることから、本村さんはこれらの人々に知識の面で引けをとっても仕方がない。
3.しかし、そうした部分を突破して努力した人。

とtoroneiさんは解釈していると理解できる。
 しかしこれは、1については単純に誤っている。http://www.shinchosha.co.jp/writer/3016/に明らかなように、本村さんは広島大学(国立です)出身。高学歴の部類に入るだろう。
 したがって、前提となる1が誤っているため、2や3も成立が難しくなる。「知識の面で引けをとっても仕方がない人」と位置づけられていた本村さんが、(むしろ本村さんと対比されていた)「国立大とか出てる」側に位置を移してしまうためである。
 なお、toroneiさんは、こうした論法を見て、「学歴で知識・知性を判断するなんて差別的だ」と言うかもしれない。誤解してほしくないが、学歴(あるいは出身地・職業)で「知」の量を測っているのは、toroneiさんである。それは、「『田舎の高卒の一介のサラリーマン』であるにもかかわらず『国立大とか出てる可能性が高い』相手と渡り合えることは立派である」と論じていることからうかがえる。この論の背景には、「本来なら負けても仕方がない」という前提があることが明らかであろう。私は、toroneiさんのこうした論法に乗っかっているにすぎない(この論法自体のおかしさは後に述べる)。以前、似たようなことで、こちらに「差別者」のレッテル貼りをされたことがあるので(http://d.hatena.ne.jp/Body/20080414#p1)、注記しておく。

知識をひけらかす以前に、調べもせず適当に語ることの方が問題。

 2点目に移る。
 toroneiさんは、

想像力の欠如を持って知をひけらかして被害者家族を苦しめている姿は、許せないという感情がありました。

と語り、(具体像が誰なのか不明だが)「想像力を持たずに『知をひけらかして被害者家族を苦しめている』」相手を非難している。
ということは、「toroneiさん自身はこうした人間に該当しない立場である(だから非難することができる)」と考えられる。これについては、後で触れる。
さて、話を戻して、上で引用したtoroneiさんの文章を見ると、「想像力の有無」と「知の有無」という別個の要素が組み合わせられ、「許せない」相手が提示されていることが分かる。ここで試しに、「想像力の有無」「知の有無」を用いて、4つの類型を作ってみる。すると以下のようになる。

第1類型:想像力あり―知識あり
第2類型:想像力あり―知識なし
第3類型:想像力なし―知識あり
第4類型:想像力なし―知識なし

 つまり、toroneiさんが非難しているのは、第3の類型に該当するような人間であることが分かる。
 ここで気になるのが、「それでは、toroneiさんは、第3類型に位置する人を非難することができるのか?」ということであろう。
 結論から言えば、私は、toroneiさんの依拠する立場の方がより問題のあるものであると考える。
 上の4つの類型を、許容できる順に並べると、最も求められるべき立場は第1類型、次に(ここは順序が人によって変わるかもしれないが)第2類型と第3類型が来て、最も許容できないものとして第4類型が来る、というものになる。
 自分自身ができていないくせに他人を非難すると、「お前が言うな」となるので、第3類型を非難できるtoroneiさんは、第1もしくは第2類型に位置しているということなのだろう。
 しかし、toroneiさんが第1類型に位置しないということは、きちんと調べもせずに本村さんを「田舎の高卒の一介のサラリーマン」などと誤認している点から判断できる。この方に知識はない。
 また、第2類型に位置するかどうかというのも――「知識」とは違って「想像力」は判断が難しいが――個人的には難しいと思われる。なぜならば、自分がきちんと知りもしない・調べてもいない・指摘されても直しもしない(3つ目は問題の時制がずれるが)ような人(=toroneiさん)に、本村さんに対する(あるいは事件に対する)「想像力」があると言えるだろうか。「きちんと調べた上で語るのでなければ、かえって対象を傷つけるかもしれない」というのが、私が持つ想像力である。こうした点から、toroneiさんが第2類型に位置するとは――真っ当な「想像力」をお持ちだとは――、個人的には思えない。
 第3類型に属しているわけがないことは、言うまでもない。今回非難対象とされているのがこの第3類型であるがため、toroneiさんがこの類型に属していたら、「自分で自分を非難する」というわけの分からないことになる。そんなことは、論理的にありえない。また、toroneiさんに知識がないことは既に述べたため、ここに位置するわけはない。
 そこで残ったものが第4類型である。先に、toroneiさんには知識がないこと、また個人的には真っ当な想像力もないと考えられることを述べているので、この類型に位置することは既に明らかとなっているのだが、消去法を用いても、「toroneiさんは第4類型に位置する」と言える。
 となれば、toroneiさんは、より問題のある立場から、「自分よりはまだまし」な人間に対して非難を行っていたということが言える。きちんと調べもせず、事件の被害者家族についてどうこう述べ、後述するように自論の補強として用いるなど、真っ当な「想像力」を持っている人間にできるわけもない。つまり、toroneiさんは、真っ当な「想像力」も知識も欠如した自分を棚にあげ、「知識はあるが想像力が欠如している人間」を非難しているのである。それは、たとえると、強盗犯が、万引きした人間を非難するようなものである。「あんたの方が、もっとひどいじゃないか」と言われるのは当然であろう。
 これが、ブクマコメントの含意するところである。

自分語りが紛れ込んでいるが、牽強付会では。

 これについては、以下の流れを引用すれば分かりやすいのではないかと思う。

 でもこの人はおそらく人一人を自分が死刑に追い込んだ事を一生背負っていく、でもそういう人だから世間は彼を後押ししたし、感情だけではない部分で、司法や世間を動かすことが出来るだけの、冷静な合理性もそこにはあった。だから裁判を「世間の感情が裁判の結果を左右する」なんて、したり顔で批判している奴は物事の本質を全然見れていない。
 僕はこのブログを始めてから、一つだけ仮想敵にしている集団がいて、それは「知識だけを武器に攻撃してくる想像力に欠けた連中」であり、言葉を変えると「大衆を馬鹿にしているインテリ」ということになるんでしょうか? 僕はそういう連中が感情とかまた違う、想像力の欠如を持って知をひけらかして被害者家族を苦しめている姿は、許せないという感情がありました。
 そんな中で本村さんは、本当によく頑張ったと思います、誤解を恐れずに言えば田舎の高卒の一介のサラリーマンが、日本のトップクラスの法曹界の人間はもちろん、マスコミ人、知識人などとこの九年間渡り合ってきたのは、どれだけ大変な事であり、それらの壁を突破するというのが、どれだけ困難な事であり、決して「愚鈍な大衆を上手く煽って、感情的に流れるようにし向けた」なんて単純な事ではない。それは全く物事の本質を見つける事も、想像力も働かす事も出来ていない。

このように、引用文は3つの段落から構成されている。
 第1段落は、本村さんが冷静であり死刑判決を受け止めるであろうこと、(誰だか分からないが)「『世間の感情が裁判の結果を左右する』と批判する奴」への批判、そうした人間は(何だか分からないが)「物事の本質」が分かっていない(逆に言うと自分はわかっている)、という3パート。
 第2段落は、唐突にtoroneiさん自身のブログにおける「仮想敵」が述べられ、それは先の類型で言うと第3類型に当てはまる人間であり、言い換えると(想像力なし―知識ありだったものが)「大衆を馬鹿にしているインテリ」であることが述べられる。(そこから話が変わり、仮想敵の話だったのに)こうした「仮想敵」に該当するような人(誰だか分からないが)が被害者家族を苦しめている姿は許せないと思っていたと述べられている。
 第3段落は、第2段落を受けて(「そんな中」)、toroneiさんが「仮想敵」とした相手と同様の相手に本村さんが頑張って渡り合ってきたこと、それが「田舎の高卒の一介のサラリーマン」である本村さんにとって、とても困難なことであることが指摘される。その上でどう関係するのか分からないが)この話は、「愚鈍な大衆を上手く煽って(略)」といった話ではなく、それはやはり(何だか分からないが)本質の把握にも、想像力を働かすこともできていないと結論付ける。
 要するに、

この判決は感情で決定されたものではない。そんなこと言う奴は本質がわかっていない(自分はわかっている)

自分は想像力に欠けたインテリを仮想敵としてこのブログで戦ってきた

本村さんも同じ敵と戦ったんだよね(想像力作動)

高卒である本村さんには大変だったろう(想像力作動)

だから、「煽られてる」なんて論は本質的に間違ってる。

という流れである。
 「toroneiさんと本村さんの『敵』は同じである」、「本村さんは非情に冷静に合理的に頑張って戦ってきていてそれが成功した」、「これを認められない奴は本質が分かっていない」という3つのことが述べられているとまとめられる。toroneiさんと本村さんの「敵」が同じであるかどうかなど、根拠も何もないのだが、そこは「想像力」によって補っているのだろう*1
 しかし、こうした論法が、どういった機能を帯びるか、toroneiさんは自覚しておられるのだろうか(自覚しててやっているのならなお悪いが)。本村さんの戦いが実を結んだことで本村さんの戦いの正当性が成立した(と思われている)今、toroneiさんと本村さんの「敵」が同じであると述べること(簡単に言うなら「僕もあなたと同じ奴と戦っているんですよ」とすること)は、自分の位置や言論を無根拠に「正しいこと」としてしまうことになる。
 ,strong>要するに、自覚があろうとなかろうと(自覚しててやっているのならなお悪いが)、本村さんの戦いを引きながら、自分の「仮想敵」との戦いを正当化しようという構図になっている。これを指して「牽強付会」としたのである。
 なお、個人的には、長い戦いを経てようやくひと段落した人(しかも、ひと段落しても、救済されるわけでもない)に寄っていって、「僕も同じ敵を『仮想敵』にしています」とする文章を書く人間に真っ当な「想像力」があるとは、やはり思えない。

論の図式が単純すぎ。

 最後である。
 ここまで、toroneiさんが、「本村さん=知識人ではない人」と位置づけ、本村さんのやり方や判決を批判する人々を「想像力を欠いた知識人」と位置づけてきたことを見た。
 しかしことはそう単純ではない。ここまでは、この構図に乗っかって私も批判してきたが、この構図そのものがおかしい。
 まず、「本村さんが知識人ではない」という論が、おかしい。学歴(それも誤認した)によって本村さんを「知識人ではない人」と位置づけておられるようだが、学歴で知識や知性は図れない。理想論ではなく、中卒だろうが高卒だろうが、学校とは別の場で身につけられる知識や知性もあり、そのことによって「知識人」となる人も存在する。本村さんは、裁判や弁護に関する知識をそもそも持たない人であったろうが、経験を通して知識を身につけていったと捉えるべきであろう。同様に、「田舎」出身であろうと、「サラリーマン」であろうと、自らが暮らしてきた経験の内から「知」を形成することは可能だし、そうした「知」をもって「知識人」(とtoroneiさんが位置づける人々)と議論することは可能である。
 また、(実体が不明なので困るのだが)本村さんのやり方や判決を批判する人々(あるいは、弁護活動を擁護する人)を「想像力を欠いた知識人」と位置づけるのはおかしい。toroneiさんは、ご自身が持っていると思い込まれている「想像(妄想)力」のみが、「想像力」だと思われているのかもしれないが、世の中には想像力は(それこそ妄想や空想のレベルまで)無数にある。どういった方向に、どう想像を向けるかという意味において「無数」と述べていると理解してほしい。つまり、世の中に「想像力」を持たない人はいない。
 こう考えると、なぜtoroneiさんは、特定の人々を「想像力を欠いた」と位置づけられるのだろうか。このようなことを述べるからには、「この点で、誰に対する、どのような想像力を欠いている」と指摘しなければいけないはずなのだが、それをしない。要するにtoroneiさんは、自分の意に沿わない「想像力」の持ち主を、「想像力を欠いている」と非難しているだけなのである。きちんと書くならば「自分と同じ想像力を欠いている」ということになろう。しかしそれならば、「そりゃそうだろう」「何であなたと同じ想像力を持つ必要があるのか」という反論が返ってくる。したがって、本来ならば「なぜ自分の(良いと思う)『想像力』が良いのか」「対する相手の『想像力』がダメなのか」を論じなければならないが、それはされていない。
 以上のように、toroneiさんの論法においては、人々の位置づけや対比が単純すぎるし、人々の論を批判する時の論理性や根拠が全くないのである。

書けなかったこと

 最後に、字数の関係でブクマにはかけなかったことを箇条書きで。

  • (既にブクマで指摘されているが)「卑劣なやり方」の弁護とは一体何か。何をもって判断したのか。
  • 弁護を受ける権利を認めておきながら、特定の形の弁護を「正しくなかった」「卑劣」と排除する根拠は何か。今回の弁護も、荒唐無稽であったにせよ、それが取りうる方法として限られたものの一つ(あるいは弁護団の良心の表れ)であったことは、多く指摘されているし、今枝弁護士らも認めるところである。その「戦術」や「良心」が自分に合うかどうかという論点はあるにせよ、特定の形の弁護を「正しくなかった」と否定することはできないだろう。この点についても、知らないことを知っているかのように語る姿勢が現れている。

おわりに

 以上である。ご要望に応えて、エントリーで指摘をさせていただいたので、応答をお待ちしたい。

*1:余談だが、根拠のなく人と自分の立場を同一視するような「想像」は、「想像」ではなく、通常は「妄想」と呼ぶ。